弊ブログも早いもので、18年目に突入。2019年に早期退職して6年目、2月になると米国株投資本を出版してから4年になります。
おかげさまで、X(旧ツイッター)のフォロワーの数も3万人を超えて、その数は今も毎月増えています。
そのため、良くも悪くも「投資インフルエンサー」の称号?をいただく様になりました。
(参考)投資インフルエンサーに認定?されました(2024/5/31)
改めて自己紹介しようと思った理由
上記の様な「今」の私の状況だけを見ると、なんだか「こいつ、調子に乗っていて、嫌な奴だ」とか「どうせ実家が太いとか恵まれて育ったんだろ」と感じている人がいてもおかしくありません。
いや、大多数の方が言葉では出さないまでも、内心、一部考えているだろうと感じています。
でも、必ずしも、そうではなく、私なりに努力してきた結果、今がある。そう思っています。
なので、一部は拙著でも触れた部分がありますが、プライベートな内容を隠さず、少し詳しく書いてみたいと思います。
実家・家系
親は二人とも九州出身です。祖父が満鉄で働いていた頃、中国で生まれた母はいわゆる「満州引き揚げ組」の一人。
(参考)『流れる星は生きている』は 絶対の絶対に読んでほしい本
学校の成績は良く、先生に教職を勧められたけど、公立高校を卒業して終えています。昭和15年生まれの世代は、高卒が当たり前ですから、特記することもないですが。
父(昭和10年生まれ)は9人兄弟の末っ子。やはり勉強が出来なかったわけではないですが(「級長」をいつも務めていた)、経済的な事情もあり、中学を卒業した後、簿記の専門学校で勉強したと聞いています。結婚後、仕事がなかった九州を離れ、関西(兵庫県尼崎市)まで出て、そこで生まれたのが私(昭和42年生まれ)です。
学歴もなく、肉体労働者だった父ですが、母曰く「収入が少ないのに、残業とかして少しでも稼ぐという考えがない」人でした。
さらに、最初は親会社の経営方針(子会社の事業所閉鎖)により失業。また、二度目は危うく命を失う交通事故(逆走してきた相手とバイクで接触事故)で入院した際、体が回復した後も長く家でゴロゴロ。ちょうど、私が多感な中学生の頃でした。
後で母から聞いた話では、家計のやりくりは祖母や甥からの経済サポートを得て、なんとか、毎月凌いでいたそうです。
この様な状況ですから、九州の田舎に行くことを除いて、家族旅行に子供時代行ったのは、おそらく2回(京都・奈良)だけ。母も、関西に住んでいながら、神戸すら満足に行ったことがない状況でした。
言わずもがなですが、この家では塾に行くお金はなく、高校まで公立だった私が私立大学に行くお金を全部出す余裕はありません。1年時の学費(総額約100万円)だけ捻出してもらい、残り3年は自賄いする約束で、受験しました。
ちなみに、小学校の卒業文集に書いたのは「お金持ちになりたい」です。とにかく、親の二の舞だけはしたくない。これが正直な気持ちでした。
勉強・学歴
元々、ごく普通の成績でした。ただ、中学のとき、技術家庭科の成績がいつも良かったので、最初普通高校ではなく高専(具体的には神戸市立工業高等専門学校)を受験しようと考え、中3の夏だけ、とにかく英語を勉強しました。
すると、夏休み明けの英語の成績が見違えるほどよくなりました。(ただし、その引き換えに、それまで1.5だった視力が急低下するという代償を払って。父は目が悪い障害者手帳持ちだったので、私も一部遺伝しているかもしれません。私の視力は大人になっても下がり続けることになりました。)
結局、中学時代、遅刻の常習犯だった私は、尼崎から神戸に通うのが嫌になったこと、やっぱり「大卒」の方がベターと考え、レベルの低い公立の普通高校に進みました。
視力が悪くなり、母曰く「一時は自殺するほど落ち込んでいた」私。家計をやりくりして、大阪の十三に当時あった視力回復センターまで通って、懸命に視力低下の防止に努めました。
目を使うのを極力回避するため、中3の残りは高校受験まで自宅での勉強はゼロ時間でしたが、レベルアップした英語力が維持され、入学した高校の英語の教師から「君は現役で大阪外大(現:大阪大学)を目指せ」と発破をかけられましたが、勉強を開始したのは高3になってからでした。
なので、国公立受験に必要なたくさんの科目を勉強しなくて良い私立に絞りこみ、自宅から通える範囲の学校を2つだけ(いわゆる「関関同立」)受験。両方とも合格。(東京の大学も受ければ受かったかもしれませんが、経済的に無理でした)
学費は日本育英会の奨学金(全額返済)とアルバイトで賄うつもりで入学しましたが、幸運なことに1年時の成績が良かったので、現在の三菱UFJ信託奨学財団から3年間無償で奨学金をいただくことが出来ました。4年間通算の成績も悪くなかったと思います。
元々、当時、ヤンキーの街で有名だった尼崎の優等生(小学生の分際でふかしタバコを吸っていた)だった私。もし、中3の夏、集中的に勉強していなかったら、今頃全く別の人生(ヤの世界に入っていたかも!?)を歩んでいたでしょう。
想定外の奨学金を得られたことで、アルバイトで稼いだお金で、大学3年時と卒業旅行の2度、海外旅行に行くことが出来ました。
これは今も人生における私の「宝物」。良い思い出です。アメリカやヨーロッパを長期間旅して、現地で「感じた」ことは、いつまでも覚えています。
職歴
私の学生時代は、80年代後期の日本の「バブル」真っ盛りの時代です。1989年の世界の株式市場における時価総額の上位を日本の銀行が占める時でした。
こうした時代背景の中で、私が就職先の候補として考えたのは、大手金融機関、総合商社、そして国際性の高いメーカーでした。
大学で国際マーケティングや貿易論とか勉強した経緯や海外旅行体験も踏まえ、総合商社(一番最初にOB訪問したのは商社)やキヤノンなどのメーカーに関心を持ちましたが、金融機関に目が向かったのは当時の環境の影響を受けたことは間違いありません。
「ウォール街で働く」とかに少し憧れもありました。なので、当時はまだ非常に珍しいことですが、外資系のJPモルガン(チェースマンハッタンとの合併前)の面接を京都の都ホテルの一室で受け、次は東京で外人相手に面接してくださいと言われました)も受けましたが、先に前職の内定が出たので、外資系で働くことは幻となりました。
ちなみに、就職面接時に、1ヵ月のアメリカ旅行での波乱の体験話などで点数稼ぎをしたことで、今も存在する邦銀大手に就職することが出来ました。(卒業大学のネームの上では最下層の一角でした)
1990年から30年近く、一つの金融機関に勤務。私に限らず、その他大勢と同様、格別出世することなく(かと言って、特に不利益を受けたわけでもない)職業人生を終えました。
若い頃の上司がいわゆる「団塊世代」で、当時、50歳の誕生日月に本体から子会社に出向・転籍などをしていく様を見て、「これは将来の自分の姿」との思いを強く抱き、そうした場面で自分の「選択肢」(人事部からの打診が嫌な勤め先・業界だった際、「NO」と言える)を持てる立場になりたいと思いながら、資産形成をしていたところ、その他事情もあり、51歳時、今流行りの言葉では「FIRE」を実現させ、今に至っています。
なお、現役サラリーマン時代、特に30代半ば以降、職場以外の「外の世界」の人とのネットワーク作りに留意しました。
それが、現在、自由人になった今、役立っています。
資産運用
運用に関しては、投資ブログであるこちらに、過去にいくつも書いていますし、本にも書いているので、改めて詳しく書きません。
幸い、金融機関にいたことでサラリーは恵まれていましたが、若い頃、管理職になって以降、退職後通じて、単純に消費を切り詰めることはせず、使うべきところには書籍や旅行、交際費などに使ってきました。(その前段で、無駄な保険に入らないなど、当然のことはやっている)
その上で、職場のルール(運用上の制約)をクリアしながら、インデックスファンド(ETF)という便利なツールも適宜活用して、想定以上に資産は増えているのが今の状況です。
エントリー「2025年の計画・抱負」に書いた通り、今年は世界一周旅行にお金を使います。
お金は最終的に使ってナンボのものです。
最後に
以上、今回初公開の内容含めて、書きました。これを読んで、俺に比べたら、全然恵まれている!とか、自分とそつくりの境遇だと感じた方、逆に遥かに実家の状況・学歴・勤務先・サラリー等において、自分の方が上という人など、様々な感想を抱いたことでしょう。
人生における各ステージで、私がどんなことを考え、何を実行してきたか。
読者の皆さんの何か少しでも参考になれば幸いです。
P.S.
今も英語の勉強やってます。
I hope you like it.